出版社/著者からの内容紹介
9・11テロは、文明の「外的」が引き起こした事件というだけではない。私たちの内にもテロに呼応する側面があるのではないか。テロリストは、私たちの内なる欲望を映しだす鏡ではないか? 現代世界の深層に横たわる葛藤の根源的要因を、資本のグローバル化との関連で鋭く読み解き、この葛藤を克服するための方策を探る、スリリングな1冊!
抄録(「電子書店パピレス」より)
序章 9・11テロ、そして社会哲学の失効
社会哲学の三幅対
二一世紀最初の年、すなわち二〇〇一年の九月一一日、いわゆるイスラーム原理主義に属すると目されているテロリストが、ニューヨークのワールド・トレード・センターと、アメリカ国防総省(ペンタゴン)へと、ハイジャックした旅客機もろとも突入し、人々を恐怖に陥れた。この同時多発テロは、ウサマ・ビンラディンによって率いられたイスラーム原理主義者グループ・アルカイダによって企画・敢行された、と考えられた。アメリカ(とその同盟国)は、アルカイダをかくまった(と解釈された)、アフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、結果的には、政権の交代を促すこととなった。この間の経緯を、ここで詳しく説明する必要はあるまい。
テロをもたらした社会的環境に対して、あるいはその後の「戦争」に対して、われわれの現在の思想は、有効な対処策を提案しうるだろうか? 多くの人は、テロは政治的には大問題だが、思想的には、たいして重要な問題を含んでいないと考えている(テロは悪いに決まっているし、テロリストは断固処分されなくてはならないのだから)。だが、ほんとうにそうであろうか
今日、倫理に関する社会哲学は、相互に反目しあう三つの陣営にほぼ整理することができる。テロが思想上どのような課題を提起しているのか、そしてこれらの課題に対して、われわれは既に解答をもっているのか、こうしたことを検討するには、これら三つの陣営がテロに対して、何を言いうるかを考えてみるのがよい。まず三つの立場を要約しておく必要がある。
(1)何が善であるか、どのような行為が善であるかということを、実質的かつ具体的に指示するような、至高の規範を直接に与えることで、倫理を基礎づけようとする立場がある。至高の規範、あるいは至高の善は、一般には、人々の相互作用の蓄積を通じて、つまりは共同体の伝統を通じて歴史的に与えられると見なされる。このような試みを代表しているのは、ナショナリストやコミュニタリアン(共同体論者)、あるいは宗教的原理主義者である。
(2)実質的な規範を与えることを断念し――少なくともただちに行為の妥当性を判断しうるほどの具体性を有する内容を規範に与えることは断念し――、主として、普遍的に妥当する規範――正義――を構成するための形式的な手続きを定式化することに力を注ぐ立場がある。この立場の典型は、『正義論』におけるジョン・ロールズである。ロールズの論の中核は、何が正義かよりも、どのような条件を満たした人々の間の合意ならば正義となりうるかの定式化にある。ロールズほどには形式的に完備されてはいないが、手続きの過程を――孤立した者たちの思弁と彼らの間の直接の合意としてではなく――コミュニケーションとして定式化している点では、より具体性をもっているのが、ユルゲン・ハーバーマスの立論である。ハーバーマスは、どのような条件を満たした討議から正義が生み出されるかを示そうとした。ここでは、内容的な善は、形式的で普遍的な正義の中で相対化される。
(3)最後に、あらゆる場面で妥当するような普遍的な規範は存在しえず、それは、ある集団、ある共同体が「普遍的な善」と見なす虚構であるとする立場がある。この立場によれば、それぞれの共同体が「普遍的」と見なすような、実際には特殊な規範が並立しているだけであり、いずれも他に対する優越性を主張できない以上は、自らの規範を他者に強制してはならない。このような規範の複数的な並存を主張するのは、ポストモダンの相対主義者であり、これを政治的な主張にまで洗練させたときに現れるのが多文化主義である。
ラカン派精神分析のスラヴォイ・ジジェクは、ほぼこれと同じ三つの哲学的な態度を列挙した後、これらが次に述べるように、弁証法的な三幅対(さんぷくつい)を構成している、と指摘している(注1)。
まず、具体的で実質的な善を、そのまま肯定する倫理がある。これは伝統主義の立場である((1))。ついで、その否定として、内容を還元して、形式的な手続きの上に倫理の普遍性を基礎づけようとする段階がある。モダニストの立場がこれにあたる((2))。だが、内容に対して中立的な形式へのこの還元は、完全には成功しない。それは、特殊で具体的な内容との繋がりを断つことはできないのだ。「特殊で具体的な内容」とは、結局、西欧的偏向である。つまり、普遍的な正義として提示されたことがらが、西欧的な善であることが暴かれてしまうのである。それゆえ、最後に、否定に対する否定として、規範の普遍性そのものを放棄する、ポストモダンの段階に到達する((3))。もはや、規範の内容の面での普遍性は何も主張されない。普遍性は、ただ、諸規範の複数的な共存に関してだけ保持される。「他者――他の善――に対して寛容であれ」「他者を尊重せよ」「他者に強制するな」「互いに平等であれ」といった標語で、複数性を維持することのみが求められるのである。
(注1)あるいは、三つの立場は、フレデリク・ジェイムソンが「歴史のマトリックス」として提起した、「伝統−モダン−ポストモダン」の各フェーズに対応している、と見なすこともできる。ジェイムソンは、この三項対立が、特定の歴史段階ではなく、任意の歴史の局面に適応できる一般的な図式として機能しうる、と論じている。
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著者について
大澤 真幸(おおさわ まさち)
1958年、長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授。専攻は、比較社会学・社会システム論。
著書に、『身体の比較社会学I・II』(頸草書房)、『資本主義のパラドックス』『電子メディア論』(新曜社)、『性愛と資本主義』(青土社)、『虚構の時代の果て』『戦後の思想空間』(ちくま新書)、『〈不気味なもの〉の政治学』(新書館)、『見たくない思想的現実を見る』(共著、岩波書店)など。